China Report 3.7

唐永泰公主墓

「唐永泰公主墓」に通じる羨道の入口

 広大な乾陵には,章懐太子(唐の三代皇帝:高宗李治と則天武后の第二子である李賢)の墓や懿徳太子(則天武后の孫である李重潤)の墓など17の陪塚がありますが,このうちの1つがこの永泰公主の墓です。

 永泰公主 (684-701) は高宗李治と則天武后の息子である唐の四代皇帝:中宗李顕 (在位:683-684 及び 705-710) の7番目の皇女で,李仙蕙と名付けられました。 彼女は則天武后の甥に当たる武承嗣(則天武后の異母兄である武元爽の息子)と結婚し, 永泰群主(「群主」とは皇太子の娘の位,「郡主」と書かれることもある)の称号を授けられています。

 墓にある墓誌銘の記載によると,彼女の死因は難産とされていますが,彼女が祖母である則天武后の政治姿勢を批判したことが則天武后の耳に入り,死に追いつめられたとの記録があります。

 701(長安元)年,皇位に就いた則天武后が,政事の大半を贔屓にしていた張易之・張昌宗の兄弟に任せっきりにしていたことを,2つ違いの兄である懿徳太子李重潤や夫の武承嗣と共に密かに批判したことが外部に漏れ,張易之の耳に入ります。  張易之はこれを直ちに訴えると則天武后は激怒し,三人を追及して自殺に追いやったとされています。 弱冠17歳でこの世を去った永泰群主は,洛陽の地に葬られました。

 則天武后の死後,父である中宗李顕が復位すると,永泰群主から永泰公主(「公主」とは皇女の称号)に追尊され,706(神竜2)年,則天武后を乾陵に高宗李治と合葬する際に,洛陽の墓を改葬し,夫の武承嗣と共に合葬して乾陵近くに陪葬しました。



【墳墓外観と羨道天井】
墳墓は円墳の饅頭形で,高さ14m,幅56m。 墓室に続く羨道の「天井」が6個見える。 この「天井」は,地下造墓の従事者に空気を送る換気や,掘り出した土の搬出,墳墓への埋葬後に羨道閉塞などの機能がある。



【白虎】
地下の羨道の入口から29m付近の西側に描かれている白虎。 対面の東側には青龍の壁画がある。 これらは乾陵で見られた鎮墓獣を壁画に描いたものと考えられる。



【永泰公主墓の碑】
「第一批全国重点文物保護単位」の碑。 「第一批」とは第一次の意で,1961年に国務院が永泰公主墓を国家級の重要文化財に指定し,陜西省の乾県人民政府が 1984年12月にこの碑を建立したもの。



 永泰公主墓は,1960年8月〜1962年2月に発掘調査が実施されました。 地下構造は羨道,前墓室,そして後墓室に分かれています。  地下の墓室に続く羨道は,長さ87.5m,幅3.5m,高さ2mで,地上の入口から急斜面の坂道が,67mの長さに渡って地下に延びています。

 墓室が暗く狭かったので写真撮影ができませんでしたが,前後に分かれる墓室の天井には太陽や月,それに満点の星が描かれ,壁面には当時の優美な宮廷の様子を描いた十六人の宮中女官の図などがあります。

 この墳墓は盗掘の形跡があり,ご丁寧(?)にも墓泥棒が争い殺し合った揚げ句の遺骨や盗掘七つ道具など発見されたとのことです。


(左)永泰公主墓に隣接する乾陵博物館 (右)中国乾陵導游図 「導游」は観光案内の意


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