China Report 4.2

河南省・龍門石窟
〜序章その2〜

伊河の畔に佇む龍門石窟

 河南省・洛陽郊外の龍門石窟、本編に入る前に何故この地に石窟が存在するのかを予習しましょう。

 中国の歴史を溯ると、五胡十六国の前秦が 394年に滅亡した後、北方の鮮卑族の拓跋珪(道武帝)が 386年に北魏を建国します。 その後 398年に北魏は河北・山西を攻め、平城(現在の山西省大同)に都を移しました。

 一方で仏教は漢の時代に中国に伝わり、三国時代から晋、そして南北朝の時代に中国各地で発展しました。 北魏の政策は仏教を国民統治に利用し、初代皇帝道武帝と2代皇帝明元帝は、 釈迦と皇帝を同一視する(皇帝即如来)ことで皇帝の権威を高めたといわれています。 しかし、3代皇帝である太武帝(即位:423〜452)は、廃仏棄釈の考えのもとで仏教を厳しく排斥し、 漢民族の道教を保護しました。

 452年に北魏4代皇帝文成帝が即位すると、仏教排斥を緩和して仏教復興事業に乗り出します。 そして460年に先亡皇帝達の追善のために、当時の国都であった平城の西に雲岡石窟の造営を始めるのです。  498年、6代皇帝孝文帝は中国を統一するためには都の平城が北に偏りすぎていたため、東斉を伐つとの口実で集めた大軍により洛陽に遷都します。 この翌年に皇帝に即位した7代皇帝宣武帝は、500年頃に伊河沿岸の伊闕に石窟を掘るように命じましたが、実際はその数年前には、 丘穆陵亮夫人尉遅が亡き息子牛ケツ(ケツは「木」へんに「厥」)のために弥勒像1体を造像して供養した記録(牛ケツ造像記:495)があり、この頃が龍門石窟の造営の始まりといわれています。



龍門石窟と雲岡石窟の比較
-龍門石窟
(りゅうもん せっくつ)
雲岡石窟
(うんこう せっくつ)
石 質火山性橄欖(かんらん)岩質
玄武岩・石灰岩
硬くて緻密
堆積性砂岩
軟らかくて粗い
作 風繊細で流麗
碑刻や題記が多く残る
大規模で雄渾
明るく大らかな表情
量感溢れる体躯

 歴史を溯っていくと、龍門石窟は北魏の王朝が雲岡石窟の延長として造営したことがわかります。 雲岡、龍門は石質や造営時期が異なることから、上の表のようなそれぞれの特徴を持っています。


緻密な石刻が並ぶ龍門石窟(古陽洞北壁)

 現在では龍門と呼ばれるこの石窟は、洛陽の街の南を流れる伊河沿岸で天然の門戸に似ている地域に造られたことから「伊闕」(「闕」とは古代の宮殿前の両側にあった楼)と呼ばれていました。  歴代皇帝の住む処は龍宮と呼ばれていたことから、その後の後漢時代(唐時代という説もある)以降に、洛陽の龍宮の門=龍門と称されるようになったとのことです。


蓮花洞付近に南向きに刻まれている「伊闕」の文字



 龍門石窟の予習、如何でしたか。 それでは洛陽の街から南の龍門石窟に向かって足を進め、現地に向かいますよ。


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