Episode 5
パーサー・タイ 
 「パーサー・タイ」とは,タイ語のこと。 日本語なら「パーサー・イープン」,英語なら「パーサー・アングリット」となる。

 タイに3年も居ると門前の小僧じゃないけれど,レストランで食事をオーダーしたり,タクシーの運転手に行き先を告げることをタイ語でできるようになっていた。 本家の「タイ語は必須か?」 のページで『タイにおけるタイ語の必要性は,日本での日本語の必要性の如し』と結論づけたが,3年住んで間違いではなかったようだ。

 我々が日本に居る外国人に対して,たとえカタコトでも日本語を話すと親近感が持てるように,タイでも彼らにとっての外国人が覚束ない発音ででもタイ語を発すると,少なくとも嫌われることはなかった。 市場での買い物では, 「外国人」だと足元を見られても,英語で交渉するよりタイ語の方が安く買えるなんてことが度々あった。

 しかしタイ語は難しい,発音は中国語の四声以上に難しい。 世界の言語の中でも発音が単純な日本語の環境に育った我々にとって,タイ語はとっつき難い言葉の一つだろう。 とはいえ, 同じアジアの国であることや仏教の思想が広く受け入れられていることなどの共通点を考えれば,案外受け入れやすい言語なのかもしれない。

タイ文字 
 『タイ文字なんて,記号みたいでわからないよ』とはタイ文字を見る日本人がよく口にする言葉。 日本では,いや地球では,何故か英語が幅を効かせているので, アルファベットによる表記であれば受け入れやすいことになっている。 国によっては,自分たちの伝統ある文字をアルファベットに変えたところもあるほど。

 タイにおけるタイ語の必要性を考えると,たとえカタコトでもタイ文字が読めれば,タイでの世界が格段に拡がる。

 バンコクに行ったばかりの頃,身の回りのタイ文字は全て理解不能な記号だった。 最初に覚えたのは「タイの言葉はな〜に?」に書いたとおり,"Ins" のように書かれた文字。 これは「トォーラサップ」というタイ語の最初の3文字で,電話を意味する文字だった。  1つでもタイ文字が読めるようになると,他に何が書いてあるか読みたくなる。 かといって,タイ語教室に勉強に行ってまでとは考えなかったから,日常の中でいかにタイ文字を覚えようかと考えた。

 「車のナンバープレートを分析」のページを企画してビシバシと写真を撮ってた頃,タイの車のナンバーには,日本と同様に県の名前が記されていることに気がついた。  タイにはバンコク都を含めて76の都県がある。 全ての都県名は覚えきれなかったが,地名を覚えるのは比較的得意な方だったので,50くらいは覚えただろう。 それからはナンバープレートを見る度に,どこの都県のものかを読むようにした。 読むと言っても最初の何文字かを読んで, あとは覚えている都県にあてはめるといった具合である。 これである程度文字は覚えたし,辞書もなんとか引けるようになった。 例外的な使い方もいくつか身についた。

世界の拡がり 
 タイを離れるまでに,タイ語がスラスラ読めるようにはならなかったけど,新聞の見出しや道路標識の一部などは,何と書いてあるか少し読めるようなっていた。 仕事でのチョットしたメモや,郵便の宛先にタイ文字でタイ語を書いた。  周りのタイの人達は「よく字が書けるようになったなぁ」とおだて半分で褒めてくれた。 日本にいる外国人が,ひらがなを書くようなものなのだろう。

 タイの人達とのパーティに呼ばれた。 彼らはカラオケが大好き。 そこではタイで何故か広く流通している谷村新司の「すばる」がリクエストされ,いつも歌わされていた。 しかし,歌詞を完璧に覚えていないので,ついついカラオケの画面に頼ってしまう。 出てくる歌詞はアルファベット(ローマ字)のこともあったが,中にはタイ文字のものもあった。 タイ文字のカラオケ画面の時はお手上げ,その時は適当に誤魔化して歌っていた。

 タイ文字を少し覚えた頃,「すばる」はタイ文字のカラオケでも歌えるようになっていた。 新聞の見出しや街の広告や看板に何が書いてあるか,正確ではなくても,おぼろげながらも判るようになった。 バンコクの外国人にとってタイ語が判らないことは結構不便で,地元の催しや停電, 公共交通機関の運行状況などがリアルタイムに判らないもの。 これは日本でも大差ないだろう。 タイ語が少しでも読めるようになると,世界が拡がったのは確かであった。

 冷静に考えると「日本語の難しさ〜文字編〜」に書いたとおり,2000以上もの,世界でも最も多くの文字を操る日本人であれば,たかが100にも満たないタイ文字を覚えることなんて,大したことはないはず。 と考えるのは簡単だけど,我が頭ん中を顧みると,もうこの歳になってからじゃ時間がかかるかな? とはいえ筆者の錆び付いた頭でも,タイ語の辞典を引いて,「世界一長い地名を探る」の如き,分析の真似事をする程度はできるもんだと,自分勝手に納得している。 〔2005年12月記〕